新型コロナウイルスの感染拡大で世界中が混乱した中で、父の両親、つまり、君たちの祖父と祖母が相次いで亡くなりました。ウイルスに感染したわけではなかったけど、感染防止のために自由な移動がままならない中で、最期の言葉を誰に話せずに亡くなったのです。
突然の両親の死も、感染症が猛威を振るう中では、世界に数ある悲劇の中の一つに過ぎないと感じさせる異様な時代です。父は2つのことを感じました。
ひとつは、「人の命には限りがある」という当たり前の事実です。日常生活の中、ノーマルな人は、自分が死ぬことを考えません。というよりも、自分がいつまでも生きるような感覚で、生活を営んでいます。
父は子どもの時、「人間は死んだらどうなるのか」ということが頭に浮かび、とても怖くなり、布団にもぐって震えていたことが何度もありました。だから、次第に、「死」について考えないようになりました。
しかし、身近な人が亡くなったりすると、「死」についての考えが改めて思い浮かぶことがあります。また、人生の中でつらい経験をすると、「死にたい」と考えるまではいかなくても、「今、死んだら楽だろうな」と考えることもありました。しかし、心と身体が健康な状態であれば、そのような考えは持ってはいけないと考えるのです。
ところが、自分の親の死は、受け入れざるを得ません。「人生100年時代」というけれど、100歳まで健康と言う人はまだ少ないように思います。「命はいつかは終わる」という誰もが知っているけれど、あまり考えたくない事実と正面から向き合うのです。
もうひとつ感じたのは、「自分が死ぬときに、残された人たちに伝えたい言葉」のことです。コロナ禍の混乱の中で、父の両親は誰にも知られずにこの世を去りました。もし、コロナのパンデミックがなかったなら、2人とも、このタイミングで孤独に死ぬことはなかったかもしれません。
今は一人暮らし世帯が急増し、一生結婚しない人も珍しくありません。いわゆる「孤独死」が、他の死に方と比べて、「とりわけ残念である」とも思いませんが、誰もいないときに、突然この世を去る可能性はこれまで以上に高くなるのではないでしょうか。
「死」と向き合うことを今までは避けてきたけれども、父の年齢になると、考えるべき時期なのだろうと感じました。両親の死がそれを教えてくれたのです。大事な人の死は、命には限りがあることを改めて考えさせてくれます。いつかは確実に訪れる自分の「死」を覚悟することで、自分が今、どう生きるべきかも考えさせてくれます。
両親の死が教えてくれた当たり前の教訓を胸に、これから、息子である君たちに、父が伝えたいと思っている言葉を書き綴っていきます。